teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


ジネンゴの頭のCM

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 7月 4日(水)00時07分54秒
返信・引用
  管理人です。

お久しぶりです。
最近は余りニュースもないのですが
先日、宮城県栗原市の細倉鉱山へ行ってきました。
別子銅山と同様、マインパークとして整備され
砂金採り体験もできます。
何と言っても、企業と市民との一体感が素晴らしく
和田コレクションの一部も展示されており
市之川鉱山の輝安鉱をはじめ
鉱物標本、鉱山展示も非常に充実していました。
さすが、三菱系のこうした産業遺跡にかける意気込みが
こちらにも伝わり、実に感動致しました。
一番下の写真・・こうした企業の使命的な標語が
新居浜で余り見られないのは寂しいことです。

話は変わりますが
同じ三菱自動車のカローラスポーツのCM・・
ジネンゴの頭を疾走する様子が流れています。
遠くには新居浜市の黒森山から銅山峰、西赤石の稜線も見えています。
懐かしく見ています。

https://toyota.jp/corollasport/cp/newbasic/?adid=ag518_dis_yj_all._.bn_corollasport_corollasport-ytop-bpalt.pc.0001.cp-newbasic-pc.180702.001.005.021&padid=ag518_dis_yj_all._.bn_corollasport_corollasport-ytop-bpalt.pc.0001.cp-newbasic-pc.180702.001.005.021

では。

 
 

「平和記念博覧会」の絵葉書・・・

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 6月10日(日)11時50分52秒
返信・引用
  管理人です。

本日は、一風変わった絵葉書を紹介します。
大正13年に、東京上野で開催された
「平和記念東京博覧会」の住友館内部の様子です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

煙害は未だ解決できないものの、産銅量が飛躍的に増加した時期だけに
銅製品や銅鉱石、製品化された電線などが誇らしげに並べられています。
特に四阪島のパノラマ模型は圧巻。綿で煙を再現するほどの力の入れようです。
よく見ると、悪評高い六本煙突があるように見えるのは、小生の眼の錯覚でしょうか?
実際には、すでにこの時は撤去されていた筈ですが・・(大正3~6年まで稼働)
まあ、国の指導で作った設備ですから、失敗を認めたくない国に対する忖度が働いたのかもしれません?
それはともかく、大正11年には、電気銅がKS銅を上回る時期ですから
電気文明の躍進を誇らしげにアピールする住友の姿勢が見て取れます。
6本煙突くらいはご愛敬と言うことでしょうか?

 

石鎚山頂上より・・ その2・・

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 5月31日(木)21時34分34秒
返信・引用
  管理人です。

前の石鎚山山頂からの夜景の栞。
その昼間の景色版が↓です。
やや、露出不足のため、陸地は暗いのですが
中央付近に四阪島が写っています。
西条や丹生川付近の埋め立てがまだ行われていないので
海が広いですね。
四阪島後方に見える高嶺は、伯耆大山でしょうか?

 

石鎚山頂上より・・

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 5月19日(土)00時09分20秒
返信・引用
  管理人です。

5月の連休も終わり、埼玉に帰って雑用の山と格闘しております。
なかなか趣味の時間も取れません。
今夜は、面白い写真をおひとつ如何でしょうか?
昭和30年代に石鎚山頂上より撮影された瀬戸内海の夜景です。
今とは違って随分と町の明かりも少ないのですが
今は見ることの出来ない四阪島の明かりが写っています。
どこかおわかりでしょうか?
さらに、夏になると周桑平野に点々と灯る誘蛾灯の光が
何とも言えず神秘的な彩りを添えていたそうです。
右下の小さな点のような明かりは成就社と思われます。
これは、当時、頂上小屋で売られていた「栞」のものです。
本物の写真をそのまま栞にした素朴な作りがさらに郷愁を誘います。

 

Re: 昭和40年頃 川西太鼓台関係図

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 5月 1日(火)08時31分23秒
返信・引用
  結晶偏頑様

太鼓台の相関図、大変、参考になります。
いわゆる遠交近攻で、太鼓台の激闘は
漁業であれ、農業であれ
新居浜の職業的な利害関係を、そのまま反映していることがよくわかりました。
この相関図を手に、太鼓祭りを見ると、また違った感慨に耽ることができそうです。
まあ、死人の出る祭りは、いろいろな意味で好ましくないので
どこかのお祭りでやっているように
過去の怨恨を綱引き大会などへのエネルギーに変換することができれば
お互いの興奮をある程度は吸収できるかもしれませんね。(^^
怨恨を絶つことはできなくても
怨恨を何らかの方法で吸収させてやることも、平和運行のひとつの手法ではないでしょうか?

ライト写真館についても、ありがとうございました。
新居浜駅近くの田○フォトスタジオのご主人も
多くの貴重な古い新居浜の写真を保管されていましたが
2004年の豪雨災害の浸水でほとんどダメにしたそうです。
大変、残念がっておられました。
こうした資料は一度失われると、二度と再生できない歴史のリアルであるだけに
今のうちに市民から広く古写真を収集し、デジタル化しておくことは
非常に重要なことだと思っています。
小生の生まれ故郷の坂出などは
塩田の写真を広く市民に募集して図書館でデジタル化する作業をおこなっていますが
新居浜市でもされているのでしょうか?
坂出市は今、市史の編纂も行っていますが
活字離れがますます進む、これからの市民に地域の歴史をアピールするには
写真集のような方式が必要との考えで、この運動を進めているとのことです。

とりいそぎ、お礼まで。

 

昭和40年頃 川西太鼓台関係図

 投稿者:結晶偏頑  投稿日:2018年 4月26日(木)00時53分9秒
返信・引用 編集済
  前投稿で同盟のことにふれたら、管理人様がそのことに興味をもっておられましたので、
私が拘わったころに知り得たことについて書いてみました。

物心ついたころから、父の肩車越に太鼓台を見て育ってきて、太鼓の音が体に染みついて、
十代の後半頃から太鼓台に拘わる様になり、一時は2人の兄と父と4人が太鼓台を担いでいました。

すぐ上の兄が太鼓台の役に拘わっていたので、その時が来たら私も、と、いう環境でした。
20歳のころ同級生の何人かが役をすることになり、一緒にやってくれないかと声がかかりました。

いずれ引き受けなければならないのなら、多少は気心しれた仲間と一緒なら良いと引き受けました。
希望の役があれば、なんでも叶えるからということでしたが、目立つところは向いてないから、地味な裏方で良いよと言っておきました。

すると、運営委員会にでてくれということで承諾しましたが、しんどいだけで引き受け手が居なくて、難儀していたところだと喜ばれました。
運営委員会は各太鼓台から3人宛て位の人選で、太鼓台の運行全般のスケジュールを決定管理するのが仕事ですが、
事故防止の観点から警察との協力関係も重要で、そのため、盆明けくらいから警察署(現、高知銀行のあたり)の2階で頻繁に会議が行われました。

メンバーは運営委員会と、各太鼓台運営責任者、警察関係者で、若輩の私ごときは末席で聞いているだけでしたが、
審議の主な内容は、敵対関係にある太鼓台を接触させないために如何にするかということでしたが、
その中で、よく出てきた言い方が、「東の2台、西の3台、金子3台」と言われているブロック分けでした。

その関係を解かりやすくしたのが下図ですが、ちょっと苦心しました。(汗)
東の2台、西の3台は旧新居浜村の漁村で、金子3台は旧金子村の農村(新田はどちらかと言えば半農半漁)で、
昭和になって、そこに住む人の構成や気質も変わっているはずなのに、こと太鼓台のことになると、
「村」の時代のままの因習を引き継いで、悪く言えば引きずっているのがよくわかりました。

ことに、東と西の敵対関係は半端ではなく、特に大江vs中須賀、東町vs西町は怨念の対決とも言うべきで、
会議の中でも、両者が過去の怨恨を持ち出して、罵り合うこともこともありました。

金子3台は、東に好意的で、西にはあまり良い印象をもってはいないようで、
地理的に言えば、金子は西に近いのにどうしてそうなのかと言えば、過っては西に苛められた経緯があるようです。

とくに新田は中須賀にひどい目にあった過去があり、年寄りはそのことを相当恨んでいるようでした。
また、私が小さいころは、久保田vs西原の喧嘩をよくしていました。

でも、金子は表面的には、温和であり、統一行動で一列になるときは、
東と西の間に金子を入れるという配置でしたが、これが実際の現場ではなかなかうまくゆかず、難儀なことでした。

そんな中で、もっと難儀なことは、あるときから久保田と江口が突然 喧嘩を始め、
金子の中立が崩れてしまったことで、一時は運営委員会も制御困難の状態に陥りました。

どうしてこう荒ぶるのか、よく話題になりますが、そのころに聞いた古老の話をあわせると、なんとなく理解できます。

つまり、「百姓は、自分の畑や田んぼに肥料を施し、種をまき、苗を植えて、そこから得たものを収穫するので抗いようがない。
しかし、漁師は海が広いといえども、網代は限られている、そこを巡って争奪するわけだから争いが起こるのも当然だ」
というわけで、端的に言い表した言葉だと思います。

猟師が舟をぶつけて櫓で殴り合ったり、太鼓台の喧嘩がもとで離縁という話も実際あったと訊きます。

また、久保田と江口が争いを始めたときも古老が言うには、
「昔、水飢饉のとき、久保田と江口は、水の取り合いで、金子川を挟んで鍬や鎌を構えてよく睨みあっていた」という。
その頃は、それがもとでよく太鼓台の喧嘩をしていたらしい、こんな事柄が時代を経ても身に染みついているのでしょうか。

その後、私は結婚を機に上部へ引っ越したので、川西の詳しいことは分りませんが、
ここ10年くらいで、川西にも5台ほどが新規に参入したと訊きますが、そのうち1台を除いて、
4台はどちらの陣営にも属さず、挑発にも応じることなく平和中立を貫いて運行しているようです。

「口屋太鼓台」もそのうちの一台で、口屋といえば大江と中須賀の中間?にあるあの場所ですが、
聞いた話で正確ではありませんが、そこの自治会を地盤としているわけではなく、厭戦志向の有志が集まって運営している太鼓台だと言われています。

市の太鼓台一覧でも、口屋だけが別枠で表示されている資料があります。

管理人様 ご質問の写真館はちょっと名前を憶えておりません。
昭和通りにも何軒かあったようですが、祭りが終わると、各写真館の前には沢山の見本が貼りだされて、
皆それをみて自分の写っているものの注文をするようになっていました。

管理人様 先に投稿の江口が一宮神社の鳥居を出てくる絵葉書ですが、かき棒と横棒を締めているのは蔓ですね。
太さが不揃いで、捲き目数が少なく粗く見えます。
川西で、この技術を持っていたのは江口だけで、昭和30年代の前半?で途絶えたので、おそらく最後の写真ではないでしょうか。

小学生のころ、通学路に江口から流れてくる小川があって、その川幅が広くなったところに、
乾燥を避けるためか、丸く束ねた沢山の蔓が浸けてあって、それを見ると、祭りが近づいてきたなあと感じることができました。

夏でも長く入っておれないほど冷たく清冽な流れで、町の中に、**泉とか、**水源とか呼ばれているところが沢山ありました。
今はもう見られない懐かしい風景でした。











 

Re: 日暮別邸

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 4月26日(木)00時44分17秒
返信・引用
  miniai 様

いつも、ありがとうございます。
これは、また大変珍しい明治の初日印!スゴいですね!!
「住友の四阪島と四坂郵便局」という冊子によると
明治41年10月18日に郵便局の新築移転が記載されていますので
こちらも記念すべき消印ですね。
島の名前が「四阪」なのに、なぜか郵便局は「四坂」
面白いですね!慣れない島民はさぞ困惑したことでしょう。 (^^;
さて
↓写真は、小生手持ちの同じ絵葉書。
絵葉書の図面は miniai様のと全く同じですが
宛名面は、miniai様のは「Carte Postale」、小生のは「Post Card」です。
結構、長い期間、増刷されていたのでしょう。それだけ需要もあったのだと思います。
新居浜-尾道の定期航路の船内でも売られていたのかもしれません。
当時、絵葉書は重要な通信手段でしたからね。
発行の「尾ノ道北辰社」は、miniai様 ゆかりのところではないですか!
よく売れた筈だと思います。四阪島には支店はなかったのですか? (^^
ところで小生の宛名面には、「別子登山紀念」の印判が押されています。
四阪島と別子登山のミスマッチもユニークだと思います。まあ、どうでもいいことですが・・

小生、明日から10日ほど帰省や旅行で留守にします。
連休明けから、また、よろしくお願いします。

とりいそぎ、お礼まで。

 

日暮別邸

 投稿者:miniai  投稿日:2018年 4月25日(水)12時23分12秒
返信・引用
  管理人様

四阪島の絵葉書も別子銅山絵葉書に負けないくらい多いですよね。

私の両親が尾道出身なので、子供の頃からだと100回近くは寄港してると思います。

でも「日暮別邸」に気が付いたのは高校生の頃だと思います。

尾道行きの船から見た日暮別邸なので、ワーッと(カッコイイ!!)思った気がします。

添付の画像は 2通共「日暮亭」の使用人さんの差出しです。

同じ絵葉書を何通も持ってたのか、「日暮亭」の備え付けだったのでしょうか?

データは 伊豫/四坂 42.10.28 ロ便と 愛媛・四坂 43.1.1 前5-8

年賀状の方の消印は三等局の使用開始初日印になります。
 

四阪島の日暮別邸

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 4月22日(日)11時15分46秒
返信・引用
  miniai 様

四阪、日暮別邸の別角度から写した絵葉書を追添付します。
大煙突とのコントラストが絶妙です。

舟人の帆を捲く音の夕空に ひびき消えゆき吾(われ)内に入る
               (歌集「冬の日暮るる頃」中原中也より)

まあ、銘々はそんなイメージですかね。別邸とは関係ありませんが・・(^^;

「徒然草」の序の段冒頭から取ったというのを聞いたような記憶もあります。

いずれにせよ、いいネーミングですね。

 

Re: 近鉄観光センター

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 4月22日(日)10時02分14秒
返信・引用
  miniai 様

ありがとうございます。
前にも、近鉄センターで結婚式をされたこと伺いました。
当時、香川県では五郷渓温泉が新婚旅行の場所として人気がありました。
「コンピラさんの奥座敷」をキャッチコピーに、一大ヘルス&レジャーセンターでした。
ずっと廃墟になってマニア垂涎の場所でしたが、今は更地になっています。

四阪島の日暮亭の情報も、ありがとうございます。
建物が、星越選鉱場跡の上に移築されるのですか?
用途を考えれば、住友クラブと連結させるのがベストでしょうが・・
そのあたりは如何でしょうか?・・また、見に行ってみます。

↓写真は、「四田商店発行」の絵葉書です。
四田商店は、四阪島唯一?の書店兼雑貨屋さんだったそうです。
その他、測候所やクラブ、葬儀場など面白い絵葉書もあります。
また、追々、紹介していく予定です。

では。

 

近鉄観光センター

 投稿者:miniai  投稿日:2018年 4月21日(土)23時14分54秒
返信・引用
  観光センターは、温水プールへ私もよく行ってました。高1の時ですが近所の友達数人と
中須賀から自転車で遠征です。

温水プールは結構流行ってましたよ。

夏は毎日と言って良いくらい別子ラインへ泳ぎに行ってたので苦になりませんでした。
それも10人位でです。

しかも、私の結婚式の披露宴会場が近鉄観光センターでした。
建物が無くなった時は、少し変な感じでした。

話変わりますが、既出かも分かりませんが?

http://6256.teacup.com/sisakajimadousoukai/bbs

日暮別邸の工事の進捗具合が良く分かりますよ。


 

Re: 舟御幸と滝の宮公園

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 4月17日(火)23時58分23秒
返信・引用
  masa 様

ありがとうございます。
無料掲示板なので、いろいろと制限のあることはお許しのほどを・・
画像は1MB以下にして頂いた方がいいと思います。
さて
masa 様の船御幸の表紙は、小生の絵葉書とまったく同じ時のものですが
よく見ると、細かい人物の位置が違っていて、原板は違う写真と思います。
でも、当時は晴れ着の女性が多くて、華やかでいいですね。
郷里の坂出の秋祭りの時も、太鼓台が主役でしたが
日頃、見ている女性の同級生が晴れ着で現れると
そのギャップというか、日常ではない美しさに見とれて
しばらくは、悶々とした夜を過ごしたことが懐かしく思い出されます。
そんな彼女らも、今年は還暦・・もう50年も経ってしまったと思うと
思わず悲しくなりました。
でも当時のお祭りの胸キュンの思い出は、今も心の中で燦めいています。(^^

↓写真は、小生の船御幸の絵葉書の入っていた袋です。
一宮神社の鳥居をくぐる江口太鼓台です。
もう一枚は、これも懐かしい「近鉄 新居浜観光センター」!
冷たいプールとスマートボールに興じた小学校時代が懐かしいです。
坂出からも、町内会の遠足でよく来ていました。
当時から新居浜には、いろいろとお世話になっていた訳です。
今後も、よろしくお願いします!

 

舟御幸と滝の宮公園

 投稿者:masa  投稿日:2018年 4月16日(月)22時16分2秒
返信・引用
  管理人様

投稿しようと何度か試みましたが、不正とのメッセージで投稿できずでした。
悩みに悩んで画像確認したところ、画像容量が重すぎました。反省です。

舟御幸の投稿ありますので、私の数少ないコレクションから太鼓台の絵葉書から
表紙の舟御幸画像です。大江橋近辺の工場の風景も今とはだいぶ違います。
絵葉書シリーズを綺麗にアルバムに綴じている方がいて、その方から借りてそのままスキャンしています。

滝の宮公園の画像も同じく『にいはま』の絵葉書から。昭和50年代でしょうか・・・
池にはボートの姿が見えます。桜も今と同じく綺麗ですね。
 

Re: ReRe古写真

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 4月14日(土)08時53分19秒
返信・引用
  結晶偏頑様

貴重なコメント、ありがとうございます。
小生も疑似カラーの写真で「サクラ・・」までは読めたのですが
写真屋さんだろうと思っていました。
仲良しこよしの太鼓台と、仲が悪い太鼓台があることは知っていましたが
西原、西町、中須賀が仲良しこよしまでは知りませんでした。
西町と東町は”不倶戴天の敵”というのは、病院関係者からよく聞きましたが・・(^^;
さすがは結晶偏頑様です。まあ、太鼓台に精通していないと
新居浜人としてはモグリですからね。
仲の良し悪しは、新居浜市の歴史がその中にそのまま凝集されている訳ですから
単に「平和運行、平和運行」と叫ぶ前にその深層をなす原因を分析することも重要と思います。
小生も非常に興味があります。また、詳しくお話をお聞きしたいものです。

船御幸の貴重な写真も、ありがとうございます。
今の水平な台船と違って、当時は船縁も高低差が相当あり、潮位の揺らぎも加わる訳ですから
ひとつ間違うと大きな事故になってしまいます。非常に気合いのいる所です。
↓写真は、昭和40年頃の小生手持ちの船御幸の絵葉書です。
前にも記事の中でも掲載しましたが、先日、遂にその絵葉書を入手しました。
船御幸の絢爛さと、背景の新居浜名物の四本煙突がよくマッチして、結構、お気に入りです。(^^
結晶偏頑様はカメラにご趣味がお有りですので、ひとつ質問ですが
以前に昭和通りにあった「ライト写真館」(或いはライト商会)をご存じでしょうか?
合田正良先生の「別子銅山」に掲載される明治初期の惣開製錬所の写真は貴重で
すべて「ライト写真館提供」と書かれてあるのが気になるのです。
湯○様という方が経営されていたそうですが、何か情報がありましたら、よろしくお願いします。

 

ReRe古写真

 投稿者:結晶偏頑  投稿日:2018年 4月13日(金)21時41分5秒
返信・引用
  管理人様 先に投稿の、疑似カラーと言われていた太鼓台の絵葉書、クリックアップして眺めていたら、場所と時間が特定できました。
決め手は、背景の商店の看板にチラッと見える、「サク・・・」の文字で、あれは病院前交差点の北側あの位置にあった大衆食堂「サクラヤ」です。

だとしたら、これは祭り二日目の午後、「病院前かきくらべ」の一場面です。
カメラマンは逆光を避けて、必然的に南側から写すので、「サクラヤ」が写り込んだのでしょう。

中須賀の左右の太鼓台は「西町」Or「西原」でしょうか。
指揮者のユニホームの色は、中須賀がエンジ色で合っていますが、
西原は紫、西町は黒に近い青のはずですが、疑似カラーは後付けなので適当で何とも言えません。

いずれにしても、この3台は強い同盟関係にあるので、
こういった接近した状態でのかきくらべは違和感がありません。

いちばん奥の太鼓台は旗の「新田」の文字が裏返って見えているようで、
病院前は新田の地元であるので、歓迎の意味を込めてこういったかきくらべに加わることはよくあることです。

年代は管理人様の仰せのとおりだと思います。
ハッピを揃える機運が高まったのは大阪万博(昭和45年?)以降で、
立体交差歩道橋ができた昭和50年?ころには会場は工場前に移っていたと思います。

疑似カラーも時を経れば、なにか味わいが深いものになりますね。

下の写真は、昭和30年代後半の船御幸で、上が岸壁から船へ載せているところで、力仕事で危険な場面です。
このときは、船と岸壁の潮高の差が少なかったので、比較的スムースに載ったようです。
下は、港内を御幸しているときで背景に御代島がみえます。

今は乗船をかき夫に限定しているようですが、当時は乗るものは拒まずで、太鼓台が載る前に写真のように、もう満員状態の時もありました。
でも、こんなほうが祭りらしくて楽しいですね。
酒が入っているので、落ちる人も結構いたらしいですが、溺れて亡くなったひとはいないようです。・・・勿論 なにがあっても自己責任です。

カメラを買ったころで、近所の幼馴染が現像焼き付けの装置を持っていたので、徹夜で作業していたころを思いさしました。



 

Re: いろいろ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 4月12日(木)22時17分41秒
返信・引用
  miniai 様

小生は、讃岐の坂出者にて新居浜の町名には疎いのですが
「筋」とか「通」は通称のことが多く、多くの町を貫いているため
使用法によって不便なことも便利なこともあります。
新居浜の発展に伴って
港筋⇒本(町)通⇒昭和通と発展したことは言うまでもありません。
西原なんかは、昔は墓場だらけで薄気味悪い所だったそうですね。
どうか、今後も資料をupしていただけると嬉しいです。
よろしく御願い致します。

小生は今回も太鼓台の絵葉書を・・・
「工都 新居浜」という戦後の袋絵葉書からです。
上側はおなじみの秋祭りの光景ですが
指揮者の恰好が、戦地からの引揚時のままのようで面白いです。
担ぎ手の戦闘帽や頬被り姿も時代を感じさせます。
下側は、滝宮公園の大池です。
まだ、樹木は小さく遙かに別子下部鉄道が山に向かってまっすぐ延びています。
上部はまだまだ人家はまばらで、澄んだ空気に山肌がよく映えて綺麗ですね。

 

いろいろ

 投稿者:miniai  投稿日:2018年 4月12日(木)11時08分14秒
返信・引用
  古い太鼓の絵葉書は前回で終了です。写真や最近の絵葉書は以前にアップさせて
戴いた気がします。

昭和40年代当初、大丸前から泉寿亭前までの直線道路は暴走族の溜り場になっており、
記憶では、かなり早い時期に泉寿亭前方向から大丸前の区間で「ネズミ捕り」を度々
やってたと思います。

画像の「新居濱市街路名及町名」は昭和15年前後の物と思いますが、泉寿亭の有った
旧地名は私には判りませんでした。

この地名の「本通」「宮通」「庄内上通」「金栄橋通」「港筋」「濱町筋」「堀江筋」
「神明町」「桜内町」は初めて聞く感じです。

絵葉書の方は(別子銅山)新田部落入口となっています。
 

Re:Re 泉寿亭 

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 4月 9日(月)19時50分10秒
返信・引用
  結晶偏頑様

泉寿亭の写真、ありがとうございます。
桜もモチノキも、庭の隅だったので生き延びたのでしょうね。
天皇陛下も宿泊されたのなら
その宿泊棟だけでも、図書館と併存させることはできなかったのでしょうか?
本当に残念なことです。
戦前は、東条英機やヒトラーユーゲントも宿泊したと、どこかで読みました。
まあ、地方都市でこれだけの宿泊施設はまずないと思います。
「泉寿亭」のマッチ箱・・ぜひ見てみたいですねえ。
巷の噂では
マイントピア別子で針金細工をされているY様が
地元のレトロなマッチ箱を収集されているそうです。
ひょっとしたら、コレクションされているかも・・
一度、ご確認されてみては・・

では、また。

 

Re 泉寿亭 

 投稿者:結晶偏頑  投稿日:2018年 4月 9日(月)00時02分7秒
返信・引用 編集済
  以前にも掲示していただきましたが、泉寿亭の記録写真ありがとうございます。
PCの画面に強引に付箋してみました。

「山桜」と「モチ」の木の位置関係はほぼ間違いないと思います。
桜は剪定ができない木である上に、横に枝を伸ばし、他の植栽と一緒にできないので、あの位置に置かれたものと考えます。
周囲が開けた芝地のように見えますが、当時は畑になっていました。
泉寿亭といえども、戦後の食糧難の時代は背に腹は替えられなかったのでしょうか。
桜が大きく成長し、モチの木を越えているのが何とも時代の移り変わりを感じます。

記録写真集NO、SS9の昭和天皇が休憩されたとされる建物で、付箋は撮影方向に矢印を向けています。
庭中の庭という感じで深い植栽の中にありました。

戦後一時 進駐軍が駐留していて、この庭で家族?がダンスパーティーをしていることがありました。
また、画面下の白い玉砂利の車回しには、恰好好い軍用ジープが数台停まっていました。
進駐軍は、洋式トイレのあるところでないと泊まれないと聞いていたので、そういう設備があったのでしょう。

なんで家族が? 今にして思えば、結構 公務に託けて女性連れで、国内を見物して回っていたのではないでしょうか。

記録写真No,ss11芝地の奥に見える建物の一階でよく宴会をしていました。
2部屋?あって、その一部屋で50人程度の宴会が可能でしたから、
他の建物も含めた泉寿亭の大きさは、想像もできないほどの大きさだったと思います。

何故この部屋だったのかは、多分 厨房に近く、大勢の料理の上げ下げに便利だったからでしょう。
天気の良い日の長い季節には、写真の芝生まで裸足で出て記念撮影をしてから宴会が始まっていました。

泉寿亭のネームが印刷された特製のマッチがあって、
当時、喫茶店や料理屋などのマッチっを収集している友人に頼まれて、何個か進呈したことがあります。

友人が言うには、ここのだけは入手が困難ということで、
しかも、着火板に磨り後のない新品という贅沢な要望で、
宴会の始まる前に配膳が終わったところを見計らって集めましたが、今も持っていれば希少でしょう。


 

Re: 古写真

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 4月 8日(日)21時14分45秒
返信・引用
  miniai 様

絵葉書の入手先は、小生の記憶違いでした。
大変、失礼いたしました。
miniai様の、この太鼓台の縦絵葉書も実にいいですね~~
祭り旗からすると、この太鼓台は中須賀のものですかね。
「祈 皇軍武運長久」とあるのが時代を感じさせます。
「中須賀太鼓台」のHPにも、同時代の古写真が掲載されていました。

https://twitter.com/nakasuka_taiko

ちなみに↓画像(クリックすると拡大します)は
戦後の組絵葉書「伊予の新居浜」の袋と太鼓台です。
発行はおそらく30年代後半から40年頃のものでしょうか?
モノクロ写真に疑似カラーが、これまたいい味をだしていますよね。
右から2番目の太鼓台も、祭り旗から中須賀と思われます。
当時は鉢合わせに日本刀を振り回して喧嘩する輩もいたとか・・
別子銅山も未だ未だ盛業で、本当に威勢のいい時代でした。

ところで、小生のヤフオク掲示板を見られましたでしょうか?
よろしければ、ご連絡ください。お伝えしたいことがあります。


masa 様

はじめまして。
今後も小生手持ちの貧弱なコレクション(別子銅山主体ですが)を紹介していきますので
今後とも、どうかよろしく御願い致します。
この城下橋の写真は
昭和25年の昭和天皇全国行幸か、昭和28年の国体時のものでしょうか?
橋が太鼓台の重みで崩れないか、ちょっと不安な感じですね。
でも、とてもいい写真だと思います。
同じような旧新高橋の渡り初めの時に繰り出した太鼓台の絵葉書もあります。
小生は、残念ながら所有してません。miniai 様は如何でしょうか?
こうした古写真も、世代が変わると捨てられてしまうことも多いと聞きます。
市内の施設でも、単に太鼓台を展示するだけでなく
古写真や祭事の様子を写したパネルを広く市民から収集、整理して
観光客にもわかりやすい資料室を設けていただきたいと願うばかりです。

 

レンタル掲示板
/104